2012年4月9日月曜日

Ohta


今年の終わり                               十二月三十一日 今年も大変お世話になりました。 多くの人々に支えられ 意義ある一年を過ごす事ができました。 みなさん ありがとうございました。 いつも訪れる 川辺もありがとうございました。 素晴らしい年越しを過ごされますように。


ありがとう さようなら                          十二月二十九日 日々の生活の中 心地よい時間を作ることは難しいものだなと 師走も終わる頃 に思いしらされます。 過度の忙しさは 自分らしさを忘れさせ 肯定的にものを捉えられなくなり 呼吸 は詰まり 不安な時間を過ごしてしまいます。 ふと そういう自分に気が付き 鏡を見ると 表情には翳りが見え もの悲しい気 分になります。 そのような時は自転車で川沿いを走り 『自分の生きる時間』 について考えま す。 日本は地球規模で見ると安全で 近くに死を感じることは 簡単にはできないか もしれません。 しかし 怠惰な生の時間の消費に心が麻痺し うなだれていた日でも 最高に心地の良い風が 自身の全てを 賛美してくれた日でも 呼吸をする私たちの近くに 生と死は 必ず常に存在します。 日々の社会のうねりに流され続けてしまうと 今日に似た明日が約束されている ように感じます。 もちろん 約束された安全な明日は ありがたいものなのですが 怠惰な生の時間の消費に心が麻痺しないように この場所がずっと続くという幻想を抱かぬように 死を 近くに感じ 進んでいきたいと 思っております。 快晴の昼にはうどんを食い 雨が降り出したら居眠りをして 雨が上がり雲の隙 間から光がこぼれはじめたら ボヤッと目覚めて服を創り 最期は全てに向かっ て『ありがとう さようなら』を言えたなら それはそれは 心地よい『自分の生きた時間』であるはずです。 『死』がなければ『生』は 成り立たたないのでしょう。 死を隣に感じることは 今を生きている事実を確認することになります。 そして 大きな生という時間の枠で どのように生き どのように死にたいのか を思うことが やがて 自由な自分の道へと繋がるのではないかと考えます。 ならば 胸を張り ポケットに『死』をさりげなく差し込んで 僕は あの道を 堂々と歩きたいと思う。


どのようにジェーン·オースティンは、 sanditonを終了したであろう

聖夜に諸行無常                             十二月二十六日 ここのところ 非常に忙しく まともに睡眠をとっていません。 先日 昼間に ぼーっとした頭で クリスマスの空気のスーパーに 食品類を買 いに出かけました。 クリスマスなので ケーキなどの甘味類が視界にちらつきました。 しかし 店内のケーキやチキンの山を乗り越えた先にある 鮮魚コーナーの一角 に 『特売』の張り紙がされていました。 近くに寄って その陳列台を見てみると 刺身用ハマチが 特価の値段になって いました。 きっと ハマチも クリスマスパーティーに招待されたかったのでしょう と思い  ハマチの購入を決定しました。 ところで この商品のラベルにハマチと記載されているが なんで在ろうか? ここに記載されるハマチとは このトレイに納められている ハマチの断片のみ を指しているのか? 恐らく トレイ内のハマチだけではないだろう。 あくまで一般認識の共通項としてのハマチをさしているのだろう。 では 一般認識の共通項のハマチとは何だろうか? 雄 雌 大きな 小さな 細い 太い を含む一般的なハマチとはなんだろうか? この意味のハマチは この世に実在するのか? 存在するとするならば それは 目に見えるハマチでなく 我々人間のイメージ であり 形而上学的な実体だと思われる。 しかし このような普遍的概念が存在しうるか? 言葉の意味は時間とともに 変化する事から 人類にとっての絶対的な意味をも つ普遍的な言葉『ハマチ』は存在しえないように思えます。 個体名でもない 普遍的概念でもない ものの名称とは 何なのでしょう? 仏教によると 言葉の意味をはじめとした目に見えないもの あるいは 目に見 えるもの これらみんな一定なものは無く 常に移ろい変わるものなのだそうです。 目紛しく移ろい変わる景色の旅路で ハマチは 僕の自宅までやってきました。 これを食べ一息つき 立ちはだかる作業の山を見上げる自分は これから どこ に流れていくのでしょうか? 閉じかかる眼をこすり 机にあるハマチにメリークリスマス


ヨシヅヤ                                十二月二十三日 ヨシヅヤとは 近所にある 食料品店 本屋 レストラン スポーツ用品店など などが入っている 巨大なショッピングモールです。 天気がよい日には いつもの小さなスーパーではなく 食料を求めヨシヅヤへ  自転車に乗って買いにいきます。 この建物の中には スガキヤ(東海地方限定のラーメンチェーン店)があるので すが 隣のたこ焼き屋 そば屋と 共同の場所に設置してあるテーブルで 食べ なくてはなりません。 お昼に行くと 子連れのお母さんがたくさんいて その中に 昼飯を食べに来て いる 会社員もいます。 今日も食べてきましたが 実は ここへ一人で食べにいくのが かなり好きなの です。 快晴の本日 その理由を 食べながら考えてきたので 発表いたします。


buttroseます。

・天井までの高さが4メートル以上もあり 開放的な気分になります。 ・スガキヤのスープの味は 故障した味覚にも良く反応してくれます。怪我以来  専ら胡椒多めになりました。 ・間仕切りとなる壁が無く 自分もその広大な空間の中に 埋もれて 個が薄ま  る 感じが良い。 ・室温 湿度 光量 ともに良好。 ・共同のテーブルを拭き掃除にやって来るおばあさんが 毎度 各々のテーブル  でご飯食べている 子供に話しかけています。その図を見ながら食べるラーメ  ン + サラダセット で 570円 は とても お買い得です。 ・混み合ってくる時間帯 サラリーマンとお母さんという普段あまり見かけない  組み合わせの席の譲り合いを 容易に確認する事ができます。 ・まれに サラリーマンとサラリーマンの胡椒の譲り合いを確認する事ができま  す。日々の疲れを癒す 嬉しい風景であります。 ・更に混み合うと サラリーマンと僕とで相席のパターンもあります。生活の時  間軸 が違う二人が 同じ席でラーメンをすする図は 俯瞰視点として  見  ても 微笑ましい光景に 映ります。 ・ラーメンを食べながら 隣でサーティーワンアイスを口の周りに散乱させて  食べてる子供を 横目に眺めつつ 二階の本屋で何の本を読もうかを考えるこ  とができます。 ・二階の本屋へ行こうと思ったが 満腹による眠気が来たので エスカレーター  の隣のベンチで 横になることができます。もしかしたら 駄目なのかもしれ  ませんが注意されたことはありません。 ・追い打ちをかけるかのごとく『♪マイハピネス ヨシヅヤ〜 ヨシヅヤ〜』  という自社の心地よいCMソングが 眠りへ誘う。

まだまだ理由があるはずなので 年内 もう一度いく事ができればなと思います。


誰が言った:ツァラトゥストラはzarathurstra

百八の煩悩                                十二月二十日 一つの要素に関して 繰り返し思い悩んでいますと 大きな自然の調和の輪から ポトリと落っこちます。 目に映る世界の実感は消失し 心の風の通り道には 微々たる平穏すら立ち入る ことができなくなります。 生きる証である己の鼓動は 心臓と脳内を圧迫する響きとなり 刻々と心を追い立 てるのです。 やがて 自分の顔面は 立ち籠める負の煙で 見た事の無い程 真っ黒けの顔に なるのです。 そんな時 僕には 心の風の通り道の固く閉ざされた扉を 向こう側から トントンと 優しく叩いて 開け方を教えてくれる 不可視の友人がいるのです。 彼は 穏やかな夕暮れの暖かい橙色の光であり 名前も知らない植物の透き通る 緑色であり 静かに変形する白い雲の形であります。 では彼の 本当の正体は何なのでしょうか? もしかすると 神様 仏様 救世主と呼ばれ 遠くから世界を眺めている者かもし れません。 僕は 自身の "生に関する希望や憧れ" が 空や川の動きなどを そう六感に 反映させてるのでは と考えます。 ですから もしかすると 夕暮れの橙色の暖かい光は 自身の希望そのもの では ないのかと思うのです。 このように感じた時 立ち籠めた負の煙は 優しい鼓動へ成り変わり 世界の実感 が戻るのです。 日々 空から降る光 生き物の色 雲の移ろい方などに 安堵を覚えることを思い 出すのです。 いつの頃からか 百八の煩悩の固まりである僕は 己のみの負の煙を流す風では なく 他者に優しい鼓動を伝える 一人の作り手になりたいと 願うようになりまし た。 もし そうなれた時 心の奥底から とても安らかな呼吸ができるような気がしてな らないのです。 どうやら漆黒の厳しい魔境とも まだまだ 向き合い精進できそうです。


九階から                                 十二月十七日 冷える夕暮れ 休憩がてら 風の吹き付ける ベランダに出てみました。 小さなベランダで吸う 野外の空気の味は 今日 初めて外へ出た証でもありまし た。 朝から時間に追われて 疲れた目に 背の高いビルの光が 鮮明に且つ美しく 目に映り込んだ瞬間 最近見つけた 恐ろしく心震わした文を 思い出したのでした。

危険から守り給えと祈るのではなく 危険と勇敢に立ち向かえますように。 痛みが鎮まることを乞うのではなく 痛みに打ち克つ心を乞えますように。 人生という戦場で味方をさがすのではなく 自分自身の力を見いだせますように。 不安と怖れの下で救済を切望するのではなく 自由を勝ち取るために耐える心を願えますように。 成功のなかにのみ あなたの恵みを感じるような卑怯者ではなく 失意のときにこそ あなたの御手に握られていることに気づけますように。

"ラビンドラナート・タゴール『果物採集』より 石川拓治訳"


三面六臂の働き                            十二月十四日


師走も中旬になり 終わらせなければならない作業 考え決めなければならないこ とが 目の前に高くそびえているのです。 そんな大変忙しい 戦いのような日々が続く時 僕には 想いを馳せる 一人の超 人がいるのです。 悪魔六騎士の一人である アシュラマンです。 屈強な肉体に 腕が六本 顔が三面あることから 僕の仕事内容の場合 その効 率は軽く見積もっても 一般成人男性の十倍に相当するのではないかと 思われ ます。 年末まで 正に修羅場です。


熱海                                    十二月十一日 ばたばたしていた都内から名古屋への帰りに 山と海の美しい熱海で一泊。 eatable of many orders のデザイナー夫妻の家を訪ねてきました。 品川を夕方には出て 新幹線に揺られる事 約一時間 熱海駅に到着し 車で山 の上にある家を目指しました。 夕食時でしたので おいしい赤ワインと歯ごたえの良いこんにゃくの入った鍋を ご馳走になりました。 暖炉のまきがパチパチはねる中 みかんと心地よい音楽をつまみに 赤ワインを 八分目まで飲んだ頃には眠り落ちていました。 翌朝は快晴だったので 八時くらいから ハイキングに出発しました。 気持ちのよい 森の中の道を てくてくと  粘土質の 急な斜面に 足を すくわれながら 茶色い モグラの掘った穴を 避けながら 遠い向こうの山の景色に 目を奪われながら 歩くこと 小一時間。 小高い山の頂上に 到着しました。 ものすごい見晴らしで 心の中の黒い負の根源が 吐く息とともに 向こうの山の中 へ流れていく感覚がしました。 頂上で食べた チーズの入ったパンと 密がつまっているリンゴが 特別においし かったです。 その後は 町へおりて 温泉に入ったり 散歩したり のんびりして 名古屋に帰っ たのですが 自宅に戻る時には 心と体が 完全回復していました。 一番下の写真は 例の頂上にて 夫妻の赤ちゃんとのベストショットです。 流れる雲をかぶった富士山の頂が少し見える 綺麗な背景を背にして  僕の髪の毛は 無垢な小さな手の 有らん限りの力で 引っ張られています。 eatable of many orders


エヴァラスとの食事                           十二月九日 先日の夜 everlasting sprout の三人と ご飯を食べにいきました。 渋谷のTORO'Sという 壁やテーブルは暖かみのある木でできている ハンバーグ のおいしいお店です。 乾杯をして あっという間に テーブルに食べ物が並びました。 スパゲティとビールとポテトを口に放り込み モゴモゴとやや真面目な話していると  ふと  エヴァラスチームが 羨ましく思えてきました。 三人から醸し出される空気は everlasting sprout の世界の 暖かくて あかる くて ハッピーな雰囲気です。 これから 大きな苦楽を共にするであろう三人 彼らに訪れる 苦痛は三分の一となり  歓喜は三十倍となるのでしょう 毎日一人 部屋で 作業している僕の目には 美しい景色に観えるのです 願わくば 寂しくなったとき 三日程 働かせてください ごちそうさまでした everlasting sprout



浅草                                     十二月七日 打ち合わせの為に 浅草に行ってきました。 浅草はこれまでも何度か行っているのですが 浅草寺へは はじめて訪れました。 名物人形焼きを左手に握りしめて 人ごみに流されながら 雷門 本堂 五重塔な どを 見てきました。 高齢者の みなさんが わいわいにぎやかで 楽しそうにしていたのが一番印象的 でした。 それから 打ち合わせの為に 革靴の工場も見学させてもらいました。 この工場では 洋服のそれとは違う 機械や工具が並んでいて とても興味深いも のでした。 僕が伺った工場は なんとも昭和ノスタルジックな雰囲気で たまりませんでした。 ohtaは 丁寧な もの作りを心がける 様々な工場の人々に支えられ 成り立って います。 いい人間関係 材料 技術があって はじめて お客さんに大切に使用してもらえ るような いいものが 生まれてくると 思うのです。  工場の方 せっかく出していただいた コーヒーを 飲めなくてすみませんでした。 カフェインを摂ると どうも動悸が 止まらなくて……


お気に入りの一枚                            十二月二日 二年くらい前に イエール国際モードフェステイバルという 南仏で行われた催し物 で ショーを行った時に制作した 面と白いシャツです。 estell というパリに住んでいるカメラマンが これらを気に入ってくれて 撮影をし てくれました。 彼女とは その後仲良くなり 互いの家に遊びにいったり 遊びで何度か撮影をした りしています。 好きなものが似ているのでしょう 本当に素敵な写真を撮る人だと思います。

毎日毎日 越えなければならない課題の山が 脈々と連なった景色をつくりあげ そ いつを見上げながら 歩いています。 誰かと何かを一緒に作り 自分だけでは見つけられなかったベクトルで よいものが できると わくわくして その夜は 寝られません。 これからも 様々な人との出会いを大切にしていきたいと思うと共に よりよいもの を作っていくことを切望します。



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