太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War、中: 太平洋战争)は、第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国(日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)との戦争である。
太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。
なお当時日本政府は大東亜戦争と呼称していたが、敗戦後連合国に使用を禁じられた。この名称についての詳細は「大東亜戦争」を参照のこと。
[編集] 名称と期間
「太平洋戦争」という名称は、連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で当時の日本側の正式名称であった「大東亜戦争」を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせる検閲によって定着した名称で、戦後になってGHQが作った呼称である[2]。実際、戦時中のアメリカでは主戦場がアメリカ側から見て太平洋地域であったことに因む「Pacific Theater(太平洋戦域)」という術語が広く使用されており、太平洋戦争という名称が戦時中に使われたことは、いずれの国に於いても無かった[3]。
戦争の期間は「1941年12月7日(ハワイ現地時間。日本時間では12月8日)から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とするのが一般的である。太平洋戦争当時の文献などを見ると「大東亜戦争」以外にも、「世界維新戦争」、「亜細亜維新」、「昭和維新戦争」などという表現も見られる。
現在の日本においては、戦争の経緯や目的の違いから「日中戦争」と「太平洋戦争」とが別個の戦争として認識されることも多いが、当時使用された「大東亜戦争」は「支那事変」(現在使用されている日中戦争)もその範疇に含むものであった。現在においても対中戦争と対米英戦争を区別しない概念として「昭和戦争」、「アジア・太平洋戦争」などの用語が使用されている。ビルマ等アジアで主に英軍と戦った戦争を太平洋戦争と呼ぶ事に違和感があるとする意見があるためである。
イギリスでは「War with Japan(対日戦争)」と呼ばれ、ヨーロッパでは、日中戦争は第二次世界大戦とは区別されず、日中戦争が発生した1937年7月7日からを太平洋戦争の始期とみなすことがある。
中華民国および中華人民共和国では「中日戦争」として認識され、8年間としている。
[編集] 関与した国家・勢力
※は途中で陣営替えを行った国・勢力
[編集] 枢軸国側
- 戦闘参加国
- 大日本帝国、タイ王国(1942-45)、満州国、中華民国南京政府、蒙古自治邦政府、自由インド仮政府、ビルマ独立義勇軍(1941-42のビルマ進攻作戦のみ)
- 協力・支援国
- 仏印政府(ヴィシー政権下のフランス[4]、ドイツ(遣日潜水艦作戦や柳船など)、イタリア王国(1941-1943、遣日潜水艦作戦など※)
- 民兵・ゲリラなど日本軍支援でつくられた郷土義勇軍
- インド国民軍、ビルマ防衛軍、郷土防衛義勇軍(インドネシア)、スマトラ義勇軍、ボルネオ義勇軍、ジャワ防衛義勇軍、マレー義勇軍、マレー義勇隊、越南青年先鋒隊(ベトナム)、フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉、比島ラウエル大統領付親衛隊、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、皇協維新軍(中国)、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍、満洲イスラム教徒騎兵団
- 連合国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国
- ビルマ(1943-1945)、フィリピン第二共和国(1943-45)、ベトナム帝国(1945-)、ラオス王国(1945-)、カンボジア王国(1945-)、ギリシャ、クロアチア独立国、ブルガリア(1941-1944※)、独立スロバキア(1941-1945)、ハンガリー王国(1941-1944※)、ルーマニア王国(1941-1944※)、セルビア救国政府(1941-1944※)、ピンドス公国・マケドニア公国(1941-1944)、フィンランド共和国(1941-1944※)、ロシア諸民族解放委員会(1944-1945)
[編集] 連合国側
- 戦闘参加国
- アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア・ニュージーランド連合軍、カナダ、オランダ、中華民国重慶政府、ソビエト連邦(1945)、蒙古人民共和国(1945)、八路軍、自由フランス(1945)
- 参戦兵力の多かった統治領
- (イギリス領インド)、イギリス領マラヤ、アメリカ領フィリピン
- その他
- 大韓民国臨時政府、フクバラハップ(フィリピン共産党の抗日武装組織)、抗日マラヤ人民軍(マレーシア華僑の抗日武装組織)、フォース136(英軍によって訓練されたゲリラ部隊)、東南アジアボランティア軍(華僑武装組織)、ニューギニア族民兵(両陣営の原住民兵として参加[5])
- 枢軸国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国
- 南アフリカ連邦、レバノン(1943-45)、エルサルバドルコスタリカ、ドミニカ(イギリス委任統治領)、ニクラグア、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、パナマ、キューバ、ノルウェー、リベリア、エジプト王国、シリア(フランス統治委任領)、サウジアラビア、イラク、イラン、メキシコ(1942-45)、ブラジル(1942-45)、コロンビア(1943-45)、ボリビア(1943-45)、イタリア王国(※1943-45)、フィンランド(※1944-45)、ルーマニア王国(※1944-45)、ブルガリア王国(※1944-45)、ペルー(1945)、ベネズエラ(1945)、ウルグアイ(1945)、パラグアイ(1945)、エクアドル(1945)、トルコ(1945)、アルゼンチン(1945)、チリ(1945)、ベルギー(1945)
[編集] 艦艇数
-
海軍戦力(太平洋配備、1941年時点)[6] 日本 米国 英国 戦艦・戦闘巡洋艦 11 9 2 航空母艦 8 3 0 重巡(20cm砲以上) 18 13 1 軽巡(15cm砲以下) 23 11 7 駆逐艦 129 80 13 潜水艦 67 56 0
[編集] 通史概略
[編集] 開戦前史
- ベルリン会議(1885年)とアジア分割競争
- アメリカの太平洋戦略
- 満州国建国と中華民国
- 中国戦線の泥沼化と三国同盟の締結
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉、大紅門事件、蘆溝橋事件をきっかけとする中国大陸における陸軍の暴走、それに呼応して起きた郎坊事件、広安門事件、通州事件、第二次上海事変により在中邦人の安全が脅かされる事態になる。この結果、政府は軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展する。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石総統率いる国民党は首� �を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日華事変の戦線は伸び未曽有の長期戦に陥っていた。
劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、国際世論(欧米世論)を味方につけ、支援を引き出すために、国民党中央宣伝部国際宣伝処[7]を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。その結果、ニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し日華事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国々は中国からの撤兵を日本に求めた。
[編集] 三国同盟の締結
1940(昭和15)年7月22日、第二次近衛内閣が成立した。組閣後4日目の7月26日閣議で「基本国策要綱」[8]を決定した。翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。 一方、大日本帝国政府は1940年(昭和15年)9月27日にナチス・ドイツ政府や、イタリア王国政府と日独伊三国軍事同盟を締結して国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、日米関係は一層悪化した。これを受け日米開戦が論じられるが政府と海軍の一部には慎重論も強い一方で陸軍は主戦派が多かった。日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。日本と中国は共にアメリカに物資を依存して戦争を行っていた。この時点で日本は石油の6割以上をアメリカから輸入していたため、アメリカなしではそもそも日中戦争の遂行は不可能な状況であった。
- 第二次欧州戦線の勃発と欧米の情勢
1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定[9]を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にもかかわらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった[10]。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。1941年4月の米英の統合会議では対独戦のあとに、対日戦に入ることが決定された。
- タイ王国による南部仏印侵攻
1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。
- 日米交渉の決裂と南進論の活発化
米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省・海軍)が使用していた暗号解読機(九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。
一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナ北部に進駐し、援蒋仏印ルートを遮断したが、新たにビルマを経由する援蒋ビルマルートが作られた。
1941年、駐米大使野村吉三郎のもとに陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄が渡米、民間人井川忠雄らとともに、アメリカ国務長官コーデル・ハルを交えて秘密交渉による日米関係改善が模索された。この交渉により策定された「日米諒解案」ではホノルルにおける日米首脳会談実現の可能性も示唆されていたが、枢軸外交にこだわる外務省の忌避により、交渉のさらなる進展を許可する回訓が遅れる中、独ソ開戦となり、世界の枠組みが大きく変化する中、アメリカにとって日米関係改善は急を要するものではなくなり「日米諒解案」は流産してしまった。
[編集] 開戦を決意(四回の御前会議)
その後も日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉をよる続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」[11](対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは満州に向けて内地から兵員の大移送が開始される[12]と共に、7月28日には南部仏印へもフランス政府との合意に基づき進駐を実施した。 一方、アメリカ[13]は、7月18日、アメリカ陸軍長官・海軍長官からルーズベルト大統領に中国からアメリカ人が操縦する150機の爆撃機で9月から10月にかけて東京・大阪・京都・横浜・神戸を奇襲爆撃で焼き払う作戦計画が提出され、大統領による承認がなされる[14]。7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース隊[15]を核とした日本本土への先制攻撃作成(J.B.No.355)が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された[4]。さらに7月25日には在米日本資産を凍結[16](ハーバート・フーバー前大統領はドイツと戦争するために日本を戦争に引きずり込もうとするものであったとしている[17])、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣の完成)。この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄からはじまり、最初は航空用燃料の停止、北部進駐に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていた蘭印との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった(特に航空用燃料の欠乏が激しく、アメリカによる働きによって蘭印交渉でも航空燃料は要求量の1/4しか確保できず、決裂の原因となった)。また、40年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたがアメリカ政府の干渉によって契約までたどり着かなない上、 仏印への和平進駐及び満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなかく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。一方、連合国側は8月25日にイギリスとソビエトは共同してイラン進駐を行っているがこれに対しては欧米列強の非難はなかった。
9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衞内閣は総辞職する。後継の東條内閣は18日に成立し、11月1日の大本営政府連絡会議[18]で改めて「帝国国策遂行要領」[19]を決定し、要領は11月5日の御前会議[20]で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハル国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[21]こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。米国は満州国を承認していないため、満州国からも軍を撤退させる事を意味する。後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーが、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と日本を弁護している程極めて強硬な内容であった。東京裁判の判事であった。ラダ・ビノード・パールも後に引用している
[編集] 宣戦布告と開戦
日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分に上陸し[24]海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。
続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交することが決まっていて、また、アメリカに対し宣戦布告をする可能性が高いことも分かっていたが、野村吉三郎が陸軍主計大佐新庄健吉の葬儀に参列していた[25]ため、真珠湾攻撃後の手交となった。
なお、この覚書には戦争をうかがわせる記述が無く、「宣戦布告無しのだまし討ち」であるとアメリカ大統領が議会で発言している。また、日本側でも宣戦布告と受け取られない事を懸念して修正を求める声もあったが、外務大臣が無修正で押し切っている。
なお、日本はイギリスに対して開戦に先立つ宣戦布告は行っておらず、対英開戦後の12月8日の朝7時半になってロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡したものの、これは正式な宣戦布告ではなかった。同日に、オランダは日本に宣戦布告した[26]。
公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略である」とする真珠湾攻撃陰謀説の根拠となっている。
また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。
第31代大統領ハーバート・フーヴァーが太平洋戦争は対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルト大統領の願望だったと述べている[27]。
あなたが私です。クリスチャン楽譜
[編集] 日本軍の攻勢
1940年9月以降日本軍は仏印進駐を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。1941年12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラの陸軍部隊の上陸(マレー作戦の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイの合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻した[28]ことに最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りを買った。
なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。上陸作戦は宣戦布告無く開始された。
日本海軍は、真珠湾を拠点とするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させ、戦艦8隻を撃沈破するなどの大戦果を挙げたものの、第三次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦(艦載機を含む)を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。
また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合国軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。
しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日 本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。
[編集] マレー沖海戦
一方、真珠湾攻撃の2日後(1941年12月10日)に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認し、チャーチルの強い希望でこの地域での戦闘の抑止力として配備されていたイギリス海軍の、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスは、日本海軍(第22航空戦隊)の双発の陸上爆撃機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな雷撃爆撃によりあっけなく撃沈された。なお、これは史上初の行動中の戦艦に対して航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈(他には日本海軍の戦艦大和と戦艦武蔵のみ)となり、戦艦に存在するとされた潜在的な抑止力は大いに低下したとされる。 なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また太平洋戦域では、戦艦と空母の艦隊の中での役割(攻撃主体と艦隊護衛)が入れ替わるきっかけとなった。
この後日本軍は、連合国軍の拠点(植民地)であるマレー半島[29]、フィリピン[30]、ボルネオ島(カリマンタン島)[31]、ジャワ島とスマトラ島[32]などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった[33]。
真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告し、12月11日には日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。
前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。
1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグ� �ス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦( 第一次遣独潜水艦)としてドイツ[34]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本軍は足止めされ、戦争資源を消耗してゆくことになる。
1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。
[編集] 戦局の転換期
4月、アメリカのアメリカ海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定するが、その直後に空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受ける。6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母ですぐ戦場に移動できるのは瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画され大鳳、雲龍、天城、葛城を筆頭に信濃や伊吹などの建造を行なうが、艦載機・搭乗員・燃料の不足により開戦 時に匹敵するような能力の機動部隊運用は終戦時まで困難なままであった。対するアメリカは、終戦までにエセックス級空母を14隻建造している。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する。
アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機などによりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。なお、アメリカ政府は、ミッドウェー海戦において勝利を収めたものの、国民感情に悪影響を及ぼさないために、この初の本土空襲の事実を公開しなかった。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米豪両軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃� ��なかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。
10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の大型空母ホーネットを撃沈、大型空母エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が皆無という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着� ��つける大きな要因になったといえる。
しかしその後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。
1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。
1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[35]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での趨勢は最早決していたため、戦況には大きな影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは孤立化し始めるものの、周辺の島々� �占領され補給が途絶えた中、自給自足の生活を行いつつ連日連合軍と航空戦を展開し、終戦まで持ちこたえた。
[編集] 連合軍の反攻
米統合参謀本部の作成した「日本撃滅戦略計画」では、「1、封鎖、特に東インド諸島地域の油田およびその他の戦略物資を運ぶ日本側補給路の切断 2、日本の諸都市への継続的な空襲 3、日本本土への上陸」によって日本を撃滅できると想定していた。開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半から戦略計画に基づき反攻作戦を本格化させた。
南西太平洋地域軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」に対して、米海軍部は一歩ずつ制空権を確保しながらでなければ前進できないとし「オレンジ計画(アメリカ海軍の対日戦争計画)」の再興を図った。結局ニミッツ海軍大将の中部太平洋地域軍がマーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、マッカーサー陸軍大将の南西太平洋地域軍がソロモン諸島、ニューギニアを経てフィリッピンへと侵攻する「太平洋横断:望楼(ウオッチタワー)作戦」が1943年に主軸作戦として発動された。その手始めに43年11月20日の南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。
同月に日本の東條英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気 に連合国有利へと傾いていった。
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失う ことになる。
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字どおり壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成さ れることになる。
陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃圏内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。太平洋上の最重要地点で� �るサイパン島を失った影響は大きく、攻勢のための布石は完全に無力化した。
主私はあなたに私が行うことができ、すべてを私の人生を提供
これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発には時間がかかった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃す るという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。
各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衞文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すら困難な状況であった。
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、まだ多くの空母や戦艦が残存していたものの、組織的な作戦能力は喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。
レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
[編集] 戦争末期
1944年8月グアム島をほぼ制圧し終えたころ、アメリカ太平洋艦隊司令部では9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は海軍が全艦隊への補給能力の限界に達していることや日本本土への影響力行使の観点から意味がないと判断していた。このため次の攻撃目標は台湾ではなく海軍部内では沖縄とされた。フィリピンレイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要衝であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった [36]。
レイテ攻略により、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり台湾攻略の戦略的な価値は更に下がったが、政治的に国民的英雄となっていた米陸軍のマッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、攻略方針について統合参謀本部で米海軍と陸軍は対立してしまった。 しかし、1944年6月の八幡空襲を皮切りにした「日本本土への継続的な爆撃」は中国大陸成都基地からの散発的な空爆に代わって、11月のグアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備にともなうボーイングB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始により、統合参謀長会議でヘンリー・アーノルド陸軍大将(硫黄島攻略提唱当時)が日本本土への戦略爆撃をより効果的にできるように硫黄島の攻略を唱えたために、ついに海軍側の主張する沖縄上陸とその前提の硫黄島攻略がアメリカ軍全体の基本戦略となった。
1944年の10月14日にルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を促した[37]。同12月14日にスターリンは武器の提供と樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求[38]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[39]。翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについても話された。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[40](ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定))。
沖縄上陸に先駆けて1945年2月19日から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。アメリカ海軍の強力な部隊に援護された米海兵隊と、島を要塞化した日本陸海軍守備隊との間で激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。最終的に日本は東京都の一部硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、北マリアナ諸島から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。日本軍はB-29を撃墜するための新型戦闘機「震電」などの迎撃機の開発を進めることになるが、実用化には至らず、既存の戦闘機で体当たり戦法などを用い必死に抵抗したが、高高度を高速で飛来し、武装も強固� ��B-29を撃墜するのは至難の業であった。
1945年3月10日には国際法違反である無差別爆撃・東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、ヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将がB29で編成された第21爆撃集団の司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全� �手中に収めたアメリカ軍は、イギリス軍も加えて度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。
迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北と空襲による生産低下で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策を編み出していた英米軍に対し戦果は上がらなくなった。
この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、1944年6月に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起� ��イギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。
その後、5月7日にナチス・ドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙していくことになる。とりわけ、ソ連はドイツ敗北で日本侵攻を目指して兵力を極東へ移動させた。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったが、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化� �原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。
アメリカ軍を中心とした連合軍は日本上陸の前提として沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃により、連合軍側は予定よりやや遅れたものの6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、いよいよ日本本土上陸を目指すことになる。
また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である世界最大の戦艦大和も4月7日に撃沈され、残存する戦艦の長門や榛名、日向、伊勢なども燃料の枯渇から行動できず、防空砲台として米軍機の攻撃にさらされるだけであった。一方で特攻兵器の「震洋」や回天・海龍などが生産され各地に基地が設営された。作戦用航空機も陸海軍機と併せると1万機以上の航空機が残存し[41]本土決戦用に特攻機とその支援機として温存され、一部を除いてB29などへの防空戦には参加しなかった。
この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対して基本的な操縦訓練を終えたパイロットが操縦する特攻機による攻撃が残された主な攻撃手段となり、連合軍艦艇に被害を与えるなどしたものの日本軍の軍事的な敗北は明らかであった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画された。1945年7月26日に連合国によりポツダム宣言が発表される。
[編集] 終戦
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による犠牲者を減らす為と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、軍部は昭和天皇に原爆開発を禁じられたにもかかわらず開発を試みたが日本の原子爆弾開発は基礎研究の域を出なかった。
その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦� ��よって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。
6月22日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれる事無く、速やかに具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結の事を口にされた。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍とちがって陸軍は、降伏を回避しようとしたので御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣� �総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。8月14日には葛根廟事件が起きた。そのような中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した(三船殉難事件)。
また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[42]の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。しかし、南樺太や千島列島では、9月4日までソ連軍との間で大規模な戦闘が行われた。また、沖縄や南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者がでた。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争、国共内戦などに多数の元日本軍将兵が参加することとなった。
[編集] 海外在住の日系人
詳細は「日系人の強制収容」を参照
戦前から安い賃金でよく働くという日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカ、オーストラリア、カナダ、ペルー、ブラジルなどをはじめに移民排斥運動が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることにつながると共に移民者は差別や偏見を受けていた(注意:当時は白人至上主義絶世期だったため、日本人のみに限らず、有色人種に対する差別や偏見も激しかった)。太平洋戦争がはじまるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも、「敵性市民」として財産を没収されてアメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた(この際同じように敵国だったドイツ系の住民や� �タリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する)。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日の丸を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線(米軍は日系日本人が離反し日本側に付くことを恐れたため、太平洋戦線ではなく欧州戦線へ投入された)の最前線に送られた。戦線での日系部隊の活躍はすさまじく、半数以上の犠牲をはらいつつも任務を遂行し、活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊となった。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、� ��後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。
[編集] 太平洋戦争による被害
関与した各国における経済損失は莫大な規模と考えられるが、ここでは人的被害について記す[43][44]。
モーセは、あなたの人々が自由である
国名 | 参戦期間 | 主戦場 | 犠牲者数(戦闘員) | 犠牲者数(民間) | 備考 |
アメリカ合衆国 | 1941-1945 | 太平洋 | 354,523(太平洋のみ) | 推計? | |
大英帝国 | 1941-1945 | 東南アジア、インド、インドシナ | 86,838 | 推計? | |
オランダ | 1941-1942 | インドネシア | 推計? | - | |
中華民国(重慶政府) | 1941-1945 | 中国大陸、ビルマ | 150万人 | 1700万人 | |
オーストラリア | 1941-1942 | ビルマ、インド、インドシナ | 推計? | - | |
ニュージーランド | 1941-1942 | ビルマ、インド、インドシナ | 推計? | - | |
自由フランス | 1945- | インドシナ | 推計? | - | |
ソビエト連邦 | 1945.8.28- | モンゴル、満洲、樺太、千島列島 | 推計? | なし | |
蒙古人民共和国 | 1945- | モンゴル、満洲 | 推計? | なし |
- 他の戦闘加担勢力
- その他[45]
戦災国名(地域) | 戦時中の人口 | 犠牲者数 | 備考 | |
中国大陸(民衆) | 4億人 | 推定約1700万人 | 両軍の戦闘の巻き添え、労務者としての徴発など | |
朝鮮半島 | 2550万人 | 推定約20万人 | 従軍(志願及び徴兵),徴用中の戦病死 | |
ベトナム | 1400万人 | 推定約200万人 | 強制供出による飢餓 | |
インドネシア | 6150万人 | 推定約200万人 | 労務者としての徴発 | |
フィリピン | 1630万人 | 推定約105万人 | 両軍の戦闘の巻き添え | |
シンガポール | 561万人 | 推計約5000人 | ||
マレーシア | ||||
ビルマ | 1500万人 | 約5万人 | 泰緬鉄道の労務者・戦闘の巻き添え |
[編集] 戦後処理と問題
[編集] 戦争裁判
- 詳細は極東国際軍事裁判を参照
1946年5月から1948年にかけて日本の戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、戦前期日本の指導者らが連合国により戦犯として裁かれた。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、指導者であっても不起訴となった者もあった。また、フィリピンや中華民国などで非公式の戦争裁判(B、C級戦犯)が行われたが、これらの裁判は、裁判の体を成しておらず、多くの無実の人が不法に処刑されたともされる。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の事後法ではない国際法に違反する行為に対する裁きを受けていないため、勝者による一方的な裁判であった。
[編集] 占領政策と戦後処理問題
- 詳細は連合国軍占領下の日本・戦後改革を参照
GHQは民主化政策を進めると共に、国力を削ぎ、日本が二度と脅威となる存在にならないよう、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」[46]に沿って、大規模な国家改造を実施した。大日本帝国の国家体制(国体)を解体した上で、新たに連合国(特に、アメリカ合衆国)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に民主化政策を実施した。並行して日本人の意識改革のため、言論が厳しく統制(プレスコードなど)されるとともに、教科書やラジオ(ラジオ放送「眞相はかうだ」等)などのメディアを通じ、情報誘導による民主化政策が実施された。しかしながら、民主化政策はその後の冷戦体制構築のため路線変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)につながった。
1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、GHQは廃止され、戦後処理は終了した。ただし、占領政策と戦後処理の結果、歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊と自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など国内問題や靖国神社問題や日本の歴史教科書問題などへの諸外国の干渉や東アジア各国に対する弱腰外交など様々な歪みが生み出されたとする主張がある。
- 詳細は連合軍軍政期 (朝鮮史)を参照
ソビエト軍とアメリカ軍は朝鮮半島を分割占領し、朝鮮人の手による朝鮮人民共和国の建国を認めず、解体を命じて弾圧を行った。1948年8月13日の韓国独立、1949年9月9日の北朝鮮独立をもって朝鮮民族は独立したが南北分離独立を認めない勢力もあり、済州島四・三事件などの鎮圧事件が起き、まもなく朝鮮戦争が勃発して南北分断が確定した。
[編集] 日本人の引揚げと復員
連合国に降伏を予告した1945年8月14日当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ロシア国立軍事公文書館の資料によると、ソ連は満州や樺太などから日本軍将兵や民間人約76万人をソ連各地に強制連行し、約2000ヶ所の収容所� ��どで強制労働を課した[47]。(シベリア抑留)[48]。
軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置された。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管した[49]。
政府は1945年9月28日にまず、舞鶴[50]、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定した。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われた。
- 引揚げと復員者数[51]
- 【注意】以下の数値は上陸地の港において引揚げ手続きを行った人のみを計上したもの
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[編集] 戦争賠償と戦後補償
詳細は「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照
- 勝戦国に対する賠償と戦後関係
- 中華民国(中華人民共和国含む)
本大戦とそれに先んじて起きていた日中戦争では、中国大陸において中華民国軍と日本軍の間で激しい攻防戦が行われ、数百万余の犠牲者を出すと共に、日本軍が多数の民間人に対して虐殺・略奪をおこなったとされるが、日中間では地域や規模などについて研究の相違が存在している[52]。
太平洋戦争が終わると、中華民国を率いていた中国国民党と、太平洋戦争前から対立していた中国共産党の間で国共内戦が勃発した。そして、1949年には中国共産党が勝利して中華人民共和国を中国大陸に樹立し、敗北した国民党は台湾に逃れた。その後の1952年に、主権を回復した日本国政府は、中華民国を「中国を代表する政府」として承認し、直ちに賠償問題の討議を行ったが、中華民国政府は賠償を放棄した。
その後1972年に中華人民共和国の周恩来首相と日本国の田中角栄首相が会談し、日本は中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認し、併せて中華民国と断交することとなった。なお、この会談において賠償問題についても話し合われたが、中華人民共和国側は中華民国と同様に賠償問題を全面的に棚上げし、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)によって賠償放棄が宣言された。代わりに「隣国として助け合うこと」、「過去の過ちと反省」などの理由から、日本が中華人民共和国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することが約束された。
日本国が1979年から中華人民共和国に対し行ってきたODA総額は、現在までに3兆円を超え[53]、近年まで年間1000億円の資金が中華人民共和国に援助されていた。
オランダは、1942年の日本軍によるオランダ領東インド(蘭印)攻略によって、同地を長く植民地として支配し続けた蘭印軍66,219名(連合軍82,618名)が捕虜とされたほか、民間人9万人余が捕らえられ、彼らが東インド住民を懲罰するために設けた監獄に収容されるという屈辱を味わった。なおオランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所に収容され、そこで被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした白馬事件が起こった。
蘭印軍を放逐した日本は、かねてからオランダの圧政下で独立運動を行っていた蘭印の住民に独立を約束し、1945年9月に独立する運びとなっていた。しかし、1945年8月14日にポツダム宣言の調印が各国に予告されると、その3日後の1945年8月17日に、スカルノは独立を宣言した。しかし、オランダ軍はこれを認めず、スカルノら独立運動家とオランダ軍の間でインドネシア独立戦争が勃発した。その後オランダ軍は敗北し、オランダ領東インドは1949年にインドネシアとして独立を果たした。
- 国家補償・元捕虜や民間人への見舞金の支払い・36億円/昭和31年(1956年・日蘭議定書)
- 個人補償・2億5500万円/平成13年(2001年・償い事業1)
終戦後オランダは、捕虜虐待などの真偽が不明瞭な容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。戦後間もなくのオランダは、ナチス・ドイツ軍の侵略によって社会が疲弊していた。そんな最中、最大の植民地だった東インドを失い、経済は大打撃を受けた。このことから、独立戦争の要因を作った大日本帝国軍と、独立戦争の指導にあたった日本兵の行為に対する評価も加わり、反日感情が長らく残った。
1971年に、太平洋戦争当時の日本軍大元帥であった昭和天皇がオランダを訪問した際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止された。その後1991年に来日した女王は、サンフランシスコ平和条約と日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」として賠償を要求した。それに対して日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。
また2007年にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[54]と述べた。
なお、サンフランシスコ平和条約の締結時に、オランダの植民地であった東インドに対する日本の侵攻に対して「被害者」の立場をとり、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したオランダに対して、インドネシア政府は、「インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」と強く批判している。また、インドネシア大統領のオランダ訪問時にも、植民地支配に関しての謝罪を求めているが、オランダからはインドネシアへの謝罪が出たことは無く、白人至上主義が全面的に出ている表れとなった。
- 戦災国に対する補償と戦後関係
日本は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負った。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しなかった。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになった。
サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術・労働力などの経済協力)支援を行った。他にも貸付方式による有償援助もあった。
- 補償を求めた国家と補償額
- カッコ内は国交回復に至った条約の発効年
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[編集] 領土返還と領土問題
- 詳細は領土問題#東アジアを参照
戦後、東京にアメリカ陸軍の元帥であるダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が置かれた。沖縄、奄美群島、小笠原諸島、トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。太平洋戦争中に占領された小笠原諸島や南西諸島、北方領土の返還問題はサンフランシスコ平和条約後も続き、小笠原諸島が1968年にアメリカ施設下から日本に復帰。1972年には、沖縄本土復帰が佐藤栄作政権のもと実現した。 しかし、ソ連に占領された北方領土は、ロシア連邦と日本国が意見でくいちがい、政治問題として棚上げされ、未だに解決していない(北方領土問題)。
[編集] 戦後の世界への影響
太平洋と欧州において繰り広げられた全世界規模の消耗戦は世界経済に大きな打撃を与えた。国際機構として国際連合が組織された。
- 日本は敗戦国であることに加え、飢饉も起こり、終戦直後は混乱を極めた[55]。戦後の日本は、徐々に経済と社会の復興を実現し、さらには高度経済成長を果たし、奇跡とも称された。しかし、太平洋戦争の評価については、日本国民間でも定まっておらず、様々な論が並存している。
- 東南アジアにおいては、大戦による欧州諸国・日本の国力低下や、太平洋戦争による経験を通じ、独立運動が高まり、終戦直後より各地で独立戦争が勃発。大航海時代以来の欧米による植民地支配(帝国主義)が崩壊する転機となった。
- ベトナムでは多くの日本軍将兵が現地に残留し、ベトナム独立戦争に参加し、クァンガイ陸軍士官学校などの教官やベトミン軍将兵としてフランス軍と戦いベトナム独立に貢献した。戦没者は靖国神社に祭られている。
- インドネシアでは多くの日本軍将兵が現地に残留し、インドネシア独立戦争に参加し、インドネシア軍将兵としてオランダ軍やイギリス軍と戦いインドネシア独立に貢献し、戦没した日本兵はカリバタ英雄墓地に祭られている。その後残留した日本人により、インドネシアとの架け橋となっていく。
- 台湾では、空襲はあったものの地上戦がなかった、他地域に比べ引き揚げが基隆港より比較的平和に行われた。が、その後当初日本統治に変わる歓迎した国共内戦に敗れた蒋介石国民党政府により二・二八事件から始まる戒厳令を布かれることにより統制の時期を迎えることになる。
- 朝鮮半島においては、日本の敗戦に伴い在留日本人の釜山港から引き揚げが始まる。ソ連から戻った金日成率いる赤軍による朝鮮戦争が1950年より3年間はじまり、南北朝鮮は分裂することとなる。
- 中国大陸では日本軍将兵が国共内戦に加わるなどして、中華民国政府(白団)や中国共産党軍(東北民主連軍航空学校)の近代化に貢献した。
- インドにおいては特にインパール作戦からなる日英の戦いはインドに独立の可能性を与え、1947年、ガンディーにより独立を果たす。なお東京裁判においてインド出身のパール判事は日本無罪を主張した。
- アメリカにおいては、日本には勝利したものの軍需産業の活発化がはじまり、そのまま国共内戦の激化、冷戦による朝鮮、ベトナムでの赤化の抑えと超大国へと変貌していく。
[編集] 戦争の評価
「東京裁判」も参照
[編集] 日本における評価
太平洋戦争の評価については、歴史家だけでなく知識人、作家、一般国民を巻き込んだ議論の的となっており、様々な見解と評価がある。
- ABCD包囲網やハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方、
- アジアを欧米の植民地から解放したとする見方、
- 欧米の帝国主義者と同じくアジア征服を企んだとする見方、
- 自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方、
- 米国は日本に石油・物資を販売しながら蒋介石の中国国民党へも強力な援助を継続しており、日中共に米国と対立して戦争継続は最初から困難であった。米国は日中に対して決定的な影響力を開戦前から持っているため、太平洋戦争は米国の日本・中国双方の弱体化策であるとの見方。
- フランクリン・ルーズベルト米国大統領による策略(陰謀)とする見方[56]。
[編集] 欧米における評価
欧米でもこの戦争については色々な見解が存在する。著名なSF作家であり歴史研究家でもあったH・G・ウエルズは、「大東亜戦争は大植民地主義に終止符をうち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」として、この戦争が文明史的な意義を持つと評価している[57]。歴史家アーノルド・J・トインビーも、「アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間信じられてきたような不敗の神ではないことを西洋人以外の人種に明らかにした」と述べている[58]。英国の歴史家クリストファー・ソーンも、非白人種による史上初めての大規模な戦争であり、これにより、19世紀以来の人種主義(白人中心主義)が後退していく重要な契機になったとしている[59]。
また、アメリカでは第二次世界大戦が米国史上はじめて経験した総力戦であったことから、国家や国家理念を象徴する戦いとして位置づけられており、特に大きな被害を出した硫黄島の戦いを題材としたモニュメントがアメリカ独立戦争のモニュメントとともに並べられることもある。また、異文明との文明衝突の見地から、アメリカ人には、この戦いで見られた日本人の行動(精神)の記憶が、後にも残存しており、アメリカ同時多発テロ事件の際には、KAMIKAZEという言葉が報道記事に使用された[要出典]。
また原子爆弾の都市への投下の正当性の問題については、ジョン・ロールズをはじめ、その正当性(十分な必要性)が議論されている。正当性が問われる理由の根拠として、人口希薄地帯に原子爆弾を投下し、威力を理解させ降伏を迫れば日本は受け入れる以外の選択はほとんど無かった可能性が高いことが挙げられる。
詳細は「日本への原子爆弾投下」を参照
ヴェノナ文書の公開以降、ルーズベルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないかという疑念が確信へと変わりつつあり、歴史観の見直しも進んでいる。また、日米戦争を引き起こしたのは、ルーズベルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのかという視点まで浮上してきた[60]。
[編集] アジアにおける評価
中華人民共和国(1949年以後の中国)や朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)では、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、これらの国以外からは、日本を加害者とする評価だけではなく、肯定的な評価もなされている。日本軍による占領政策は概ね否定的であり、民間徴用にともなう虐待(「びんた」は多くのアジア諸国で現地語化した)や徴発・軍票体制による旧経済の混乱、農産品市場の脆弱さにともなう飢餓の発生などが論点として挙げられる(反日感情も参照)。肯定的な評価としては現地人による自警団・自衛団を日本軍が組織したこと、それが有能で才能ある現地人の発掘につながり独立運動の中核をになう人材となっていったこと、日本軍の強調した民族自決と日本を長兄としたアジア連帯のうち、とくに前者が� �族意識の高揚につながったことなどが挙げられる。中国は結果的に米英、ソ連の援助を利用して日本を追い出し、さらに欧米勢もほとんど駆逐して香港とマカオの返還で完全に外国勢力駆逐を完了した。
太平洋戦争で大日本帝国に解放されたベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、タイ、ビルマ(ミャンマー)など東南アジアの歴史学者の多くは、太平洋戦争とそれに続くアジア各地の独立戦争を一連の流れとして考えており、欧米の戦勝国が日本の戦争責任を非難することについて、「欧米によるアジア植民地の歴史を歪曲することだ」と断じている。
これは、当時のアジアにおいて大日本帝国とタイ王国の2ヶ国以外の総てのアジア地域はヨーロッパやアメリカの植民地若しくは隷属地であったため、(1)植民地支配からの解放に大きく寄与したとして肯定的に評価しているケース、(2)欧米に奴隷扱いされていたアジアの人々に、教育や政府機関、軍事力を整えたことを肯定しているケース、(3)戦後、再びアジアを植民地化しようと再上陸してきたヨーロッパ宗主国(特にイギリス、フランス、オランダ)に対して、旧日本軍の残党と共に戦ったことを好意的に評価しているケース、(4)日本軍の後盾で政権についた政治家(例:ベトナムのバオ・ダイ)の都合で親日的姿勢をとったケースなど様々である。
インドネシアでは太平洋戦争終戦後、直ぐにオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)となったが、独立には残留日本兵も関与したこともあり、日本軍を独立の英雄として称えられるが、他方、日本軍による強制労働により、多くのインドネシアの若者が犠牲になった。戦後の賠償交渉では、インドネシア政府は労務者の総動員数を400万人と主張している[61]。
[編集] 台湾における評価
当時は日本統治下であった台湾では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。また戦後の国共内戦で敗北し、台湾に移ってきた中国国民党の強権統治に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいる。
戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然のことではあるが、不当な強制連行であったと批判する反日活動家もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している反日活動家もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と(講和条約により日本政府が台湾の統治権を放棄したために別の国家扱いになった為)区別して取り扱いがなされたことに対する批判もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてど� ��評価するかについては政治的な論点のひとつとなっている。
日本の支配に対する評価については「日本統治時代 (台湾)#歴史的評価」を参照
[編集] マレーシアにおける評価
他民族で構成されるマレーシアでは[62]、太平洋戦争について見解は多様であるが、典型的な意見としては、日本による統治が、イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ諸国によるアジア植民地支配を駆逐し、アジア人自身を覚醒させたとして評価するものがある。特に、マレー人の間では、イギリスによる長い植民地統治による愚民化政策と西洋文明の浸透(文化侵略)などによって、独自のアイデンティティーを喪失したという論調が強いとされる。戦争当時、マレー人は英国人と比べて極めて低い権利しか与えられず、いわゆる奴隷であった。当時のマレー系住民は自らを支配する存在である「白人」が無敵で、絶対的な存在[63]だと信じていた。しかし、英国東洋艦隊が同じ東洋人である日本人によって撃滅されたことや、イギリス帝国絶対不敗神話の象徴だったシンガポールが陥落したこと、イギリス軍が焦土作戦のため、徹底的に破壊した発電所や工場などの都市設備を日本人がいとも簡単に短期間のうちに復旧させてみせたことなどを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この出来事は長い間、支配に甘んじてきたマレー系住民の意識を変える転機となり、独立心を芽生えさせた。
ほか、植民地統治の過程で流入した華僑や印橋などの異民族との抗争を経験をしたことから、ヨーロッパ各国が行った行為に対する批判が強く、ヨーロッパ(特にイギリス・フランス・オランダ)のメディアが日本軍による戦争を批判することに対しては、ヨーロッパ各国が行った植民地支配の歴史を歪曲しようとしているとして批判的な立場をとっている。チャンドラ・ムザファーは「欧州は、日本とアジアを分断するために、日本批判を繰り返しているのではないか」と発言したり、マハティール・ビン・モハマド首相は「もしも過去のことを問題にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話をすることが出来ない。…我々は彼らと戦争をしたことがあるからだ。勿論、そういう出来事が過去にあったことを忘れ� ��わけではないが、今は現在に基づいて関係を築いていくべきだ。マレーシアは、日本に謝罪を求めたりはしない。謝罪するよりも、もっと社会と市場を開放してもらいたいのだ。」と発言しており、ほかルックイースト政策などでもうかがえる。
他方、大戦中は、民族系統に問わず日本軍に協力した者や抗日活動に身を投じたものもおり、このうち抗日運動に身を投じたのは華人系の住民が圧倒的に多く、これは日中戦争が影響している。マラヤの華僑は故国のため、国民党政府軍に物心両面の援助を惜しまなかった。中国大陸に渡り抗日軍に身を投じたり、中国国民党組織に向けて情報提供する者、抗日救国運動に力を注ぐ人々もいた。華人系マレー人のオン・カティン住宅・地方自治相は、小泉純一郎首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝した時、「私は、この歴史教科書と首相の靖国神社参拝への抗議の意思を表明する先頭に立ちたい」「侵略戦争を正しい戦争と教えることは、次の世代を誤って導くことになる」[64]と述べている。
- ^ 国際的な休戦協定の締結日は降伏文書に調印した9月2日である。ポツダム宣言の受諾を各国政府に通知した日は8月14日であるが、一般には日本全軍に対する停戦指令を発した8月15日をもって終戦日とすることが多い。
- ^ キャロル・グラック・和田春樹・姜尚中「戦後の「日米関係」を再考する」(『環』vol.8所収),藤原書店、2002年。およびキャロル・グラック・和田春樹・姜尚中『「日米関係」からの自立』藤原書店、2003年。
- ^ "theater (military)=戦域". 2009年8月1日閲覧。
- ^ 枢軸国側はヴィシー政権を承認しており、ベトナムの統治を仏印政府に委ね、またヴィシー政権も、日本軍がベトナムを軍事拠点として使用することを認めていた。
- ^ 出典:滝口岩夫著、『新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録』、1999年初版 ISBN 4-807-499181
- ^ 松村劭著、『新・戦争学』、文芸春秋、2000年8月20日第1刷発行、ISBN 4166601172、49頁
- ^ 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、2006年、ISBN 479421488X
- ^ 「世界は今や歴史的一大転機に際会」しているとの認識に立ち、「八紘一宇」のために「大東亜新秩序の建設」をめざし「国内体制の刷新」を行い、「強力な新政治体制の確立」を国策として決定した。(遠山茂樹、今井清一、藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 岩波新書(青版)355 1959年 179ページ)
- ^ 協定はアメリカが参戦した場合の米英統合の戦略を定めたもので、ドイツを打倒を第一として、その後に対日戦に入るとした
- ^ 当時、ホワイトハウスの前では反戦運動家や婦人団体、孤立主義者達がイギリスと蒋介石を援助するルーズベルトを批判するデモ活動が盛んに行われていた
- ^ もし、日米交渉が失敗し戦争を行うことになった場合、南部仏印が連合国軍によって占領されると南方進出及びビルマルートの遮断が困難になると予想されたことから南部にも進駐の必要性指摘。
- ^ 「関東軍特種演習(関特演)」という名で兵力動員(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥ 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 8ページ)
- ^ 7月2日の御前会議では「対米英戦も辞せず」という強硬なものだったが、アメリカ側はその際決定された事項について事前に知っていたという
- ^ 加瀬英明 (2011年12月5日). "【加瀬英明】アメリカはなぜ対日戦争を仕掛けたのか【桜H23/12/5】". 日本文化チャンネル桜. 2011年12月5日閲覧。
- ^ 部隊はA.V.G.アメリカンボランティアグループ(米国義勇軍)と称し、中国軍の傭兵の形態を取っていた。退役軍人で組織され、活動資金もアメリカ政府が援助していた。
- ^ 大英帝国・フィリピンは7月26日、オランダ領東インドは27日に同様の凍結措置がとられた。
- ^ 佐々木類 (2011年12月7日). "「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判". 産経新聞. 2011年12月7日閲覧。
- ^ その名の通り大本営と政府との間の開かれる会合で、重要国策に際して、国務と統帥の統合・調整を図るために創られた。出席者は、参謀総長、軍令部総長、首相、陸相、海相、外相など。最初の開催は1937(昭和12)年11月。開戦に至る過程で重要国策決定の機関として政治的比重が増した。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥ 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 37・38ページ)
- ^ 「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し左記措置を採る」とした上で「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥ 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 14ページ)
- ^ 「開戦という日本の国家意思が最終的に確定した。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥ 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 49ページ)
- ^ 実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。
- ^ 中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105
- ^ 「日米が開戦した場合には、たとえ、武装していない商船でも警告なしに攻撃してもよい」
- ^ 午前2時15分(日本時間)コタバルへの上陸開始(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥ 岩波書店 〈岩波新書1047〉2007年 9ページ)
- ^ 斉藤充功『開戦通告はなぜ遅れたか』新潮新書、2004年
- ^ "(purportedly) The Kingdom of the Netherlands Declares War with Japan", (purportedly) Inter-Allied Review (Inter-Allied Review via publisher=[Pearl Harbor History Associates Inc. ,ibiblio http://www.ibiblio.org/pha/]), ((purportedly) December 15, 1941), http://www.ibiblio.org/pha/policy/1941/411208c.html 2010年6月23日閲覧。
- ^
- ^ 米英に開戦の情報が漏れるのを防ぐため、開戦日の直前に、タイ政府に直接開戦の趣旨を伝え、日本軍の英領ビルマ・マレーシア侵攻作戦のためにタイ領内の通過する許可を得ようと手はずを整えていたが、開戦の空気を感じ取ったピブン首相は、日本に同調していると思われ、英国の恨みを買わないよう配慮し、開戦の数日前から身柄を隠していたため同意を得ることが出来なかった。作戦決行日が数時間過ぎ、マレー上陸作戦が実行する中で、痺れをきたした南方軍総軍は作戦に推移に支障をきたすとの理由から仏印を越えてタイ領内に侵攻した。この間、在泰邦人が殺害される事件が起きたり、南部では侵攻する日本軍とタイ軍の間で小規模な衝突も発生、11日に同首相が日本交渉団の前に現れ、日本国軍隊のタイ国 領域通過に関する協定への同意したことから日泰の緊張は収束した
- ^ 当時はイギリスの植民地。
- ^ 当時はアメリカの植民地。
- ^ 当時はイギリスとオランダの植民地。
- ^ オランダの植民地。
- ^ しかし、東ティモールは、オランダ軍とオーストラリア軍が中立担保のためとして保障占領した。その後、日本軍がオランダ領の西ティモールと同時に占領し、ポルトガル政府の暗黙の下、マカオとともに事実上の統治下においた。
- ^ 正式にはドイツ占領下のフランス。
- ^ 戦死後元帥海軍大将となる。
- ^ 日本軍は、1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府および駐留フランス軍を武力によって解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたために連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行なわなかった。
- ^ 前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,30頁
- ^ 長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(上)中公文庫、2011年、p64 - 65
- ^ 在米ソ連大使アンドレイ・グロムイコ「回顧録」。Andrei Gromyko,Memoires,1990.W.A.Harriman,&E.Abel,Special Envoy to Churchill and Stalin,1975.前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,31頁
- ^ 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
- 23ページ目「ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)」
- 24ページ目「ヤルタ協定」
- ^ 「囚われの日本軍気秘録」P.118 野原茂著 光人社
- ^ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
- ^ 南アジア、日中戦争(中国戦線)も含む。中華民国と、満州国及び中華民国南京政府との分裂状態にあった中国大陸については民間人の死者数は記載せず、「その他」で記載。
- ^ 出典:本庄豊『新・ぼくらの太平洋戦争(2002)』ISBN 978-4-87699-688-9
- ^ 出典は本庄豊『新・ぼくらの太平洋戦争(2002)』。なお、戦闘や戦争が絡んだ弾圧行為、強制労働など、太平洋戦争(日中戦争も含む)に巻き込まれて亡くなった人数など、アジアなどの戦闘が起きた地域のみに限らず記載。上記の武装勢力とは区別。なお、国名については当時の国家名を記載。国家的な概念がない地域の場合は現在の国名で記載。
- ^ 降伏後における米国の初期対日方針[1][2]
- ^ シベリア抑留、露に76万人分の資料 軍事公文書館でカード発見 産経ニュース 2009.7.24
- ^ 講談社出版『昭和の戦争7 引き揚げ ジャーナリストの証言』1986.3より
- ^ 後に第一、第二復員省は、復員庁となった後、厚生省所管の第一復員局、首相所管の第二復員局を経て共に引揚援護局に改組され、現在は一括して厚生労働省の所管となり、主に同省社会援護局が戦病者や戦没者遺族への年金、遺骨収集、中国残留邦人の帰国などを取り扱っている。
- ^ 舞鶴は1949年(昭和25年)以降は唯一の引揚げ港となった。
- ^ 出典:数値は厚生労働省社会援護局資料(平成16年1月1日現在)より
- ^ 【日中歴史研究】南京事件の日本側論文(要旨)2010年1月31日 産経新聞
- ^ [3] 出典:外務省ホームページ・中国へのODA実績概要
- ^
- ^ J・ダワー『敗北を抱きしめて』岩波書店
- ^ フランクリン・ルーズベルト#第二次世界大戦への参戦、真珠湾攻撃陰謀説などを参照
- ^ H・G・ウエルズ『世界史概観』岩波新書
- ^ オブザーバー紙1956年10月28日付記事
- ^ 市川洋一訳『太平洋戦争とは何だったのか――1941-45年の国家、社会、そして極東戦争』(草思社, 1989年/普及版, 2005年)ISBN 4794203365
- ^ 江崎道朗「アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア赤化戦略」『別冊正論15 中国共産党野望と謀略の90年』
- ^ [越田稜著「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」(p265〜p270)]
- ^ 日本軍がマレー半島に侵入した時、マレーシアはイギリスの植民地下にあり、マラッカ王国以来のマレー人、外来の華人系住民・インド系住民、その他に日本人、イギリス人などが居住していた。現在、マレーシア人はマレー系が約65%、華人系が約25%、インド系が約7%を占める。
- ^ 現在でも東南アジアのカフェでは白人客のことをマスターと呼ぶ名残がみられる
- ^ しんぶん赤旗 2001年8月17日「歴史改竄許さない」
[編集] 参考文献
- 日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』全8巻(朝日新聞社)
- ジョン・V.A.マクマリー『平和はいかに失われたか』(原書房)
- クリストファー・ソーン『太平洋戦争とは何だったのか』(草思社)
- ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』(角川書店)
- コーデル・ハル『ハル回顧録』(中公文庫)
- ジョン・トーランド著『大日本帝国の興亡』ハヤカワ文庫、毎日新聞社訳、1984年 ISBN 9784150501013
- 大杉一雄『日米開戦への道(上・下)』講談社学術文庫、2008年
- 秦郁彦『なぜ日本は敗れたのか』(洋泉社新書)
- 児島襄『太平洋戦争(上・下)』(中公新書)
- 佐治芳彦『太平洋戦争の謎 魔性の歴史=日米対決の真相に迫る』文芸社 ISBN 4-537-25080-1
- 斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 ISBN 4-106-10076-2
- 佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』筑摩書房 ISBN 4-480-06244-0
- 渡辺正俊『マレーシア人の太平洋戦争-この戦争は彼らにとって何であったか-』東京図書出版会、2003年
- 山岡荘八『小説 太平洋戦争』全9巻(講談社)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 15年戦争史、用語解説 松山大学田村
- 宣戦の詔勅
- 開戦と終戦 開戦の臨時ニュースと、終戦の詔勅(玉音放送)を、文字と音声で確認できる。
- American Rhetoric アメリカ合衆国史上の有名な演説を集めたサイト(英語)。フランクリン・ルーズヴェルト大統領が議会で行った真珠湾攻撃の報告 "Pearl Harbor Address to the Nation" を文字と音声で確認できる(Top 100 Speeches → All Speeches by Decade → 08 Dec 1941)。
- 戦跡の歩き方 アジア太平洋地域に遺されている戦争遺跡
- 「戦争と石油~太平洋戦争編~」岩間敏(JOGMEC、石油天然ガスレビュー2006.
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